第6回 『お風呂場にて』

 夫が主宰するメトロトロンというインディーズレーベルには色んなタイプの音楽家達がいる。
彼等のアルバムのほとんどは我が家のスタジオで録音されたものだ。
レコーディング中、私達の日常生活は彼等の音楽とともにある。
お風呂に入っていようが、テレビを見ていようが、完全防音など施されていないお粗末なスタジオのドアから白熱の演奏や歌が洩れ聞こえてくるからだ。

とりたてて用事が無ければ四六時中ダラダラと家に居るのが好きなので、そうした状態だって楽しみの一つとなる。
湯舟につかりながら、「さっきからこの4小節に随分手間取っているようだけど、ひょっとして柄にもなく煮詰まっているのかな?後で林檎でも剥いて持って行ってあげようか」とか、「先週の仮唄のほうが声の出が良いかも。あ、歌詞が変わってる。へんな歌詞。」とか、勝手この上ない失礼な態度で興味深く拝聴している。
下手なコンサートなんか聴くより、よほど面白い。

こんな風に人の音楽に接していると、だんだん自分の事を棚にあげて偉そうに他人を褒めたり批判したりするイヤなオバサンになりそうで怖いけれど、考えてみると有り難い稀な経験だ。
他人の音楽の制作過程に、参加する訳でもないのに居合わせているのだから。

 何か物事が変化してゆく様を目撃するのは面白いものだ。
完成形よりも制作途上にある物の方が魅力的だったり、その逆で全然パッとしないのに最後の最後で素晴らしく変貌を遂げる場合、青写真どおりに着々と前進するケース、また予期せぬアクシデントに見舞われ不運にも制作を断念せざるを得ない事もある。

音楽も同じで、ものすごく時間をかけ、大勢の人間が一肌も二肌も脱いで、その関わった人全員が深く納得しあいながら、やっとこさ辿り着いた完成形よりも、たった一人のひょんな思い付きでとてもイージーに録音した未完成なデモテープの方が100倍良い、なんてことも有りうる。

海のモノとも山のモノとも、まして作者の手を離れていない不完全な音楽。
途中だから、どこか居心地が悪そうで自信無さげな。
途中なのに、締め切りも有るようで無いような。
うるさく注文をつける人が居ない代わりに気合いの入れどころが不明瞭で、悪戯に不安をつのらせるような。
たくさんの選択肢を目の前にして迷いながらも、どこかカラ元気な・・・・・。
自信満々とは程遠いその姿は、愛らしくさえある。
制作過程とは楽しくもあるが、どこかしら不安も付きまとうものだ。

我が家での録音に限ったことではない。
どんな大御所だって、それは同じだろう。
完璧な弦アレンジも演奏者の解釈が違えば、良くも悪くも別物になる。
椅子にふんぞり返りながらも苛立ちを押さえきれず、普段の4倍も5倍もタバコを吸ってしまってアシスタントに煙たがられたりする。
「うまくいかないから面白い」や「アクシデントは発想転換の源」は、単に文体の領域における逆説論みたいなもので、音楽家にしてみれば大変なことに変わりは無い。
その文章が表わすプラスなイメージに反して、状況は実に過酷なはずだ。
過酷な現場を何喰わぬ顔で切り抜けなくてはプロとは言えないのも事実だが、しかしよく考えれば実際はそんな大した事ではないのだ、死ぬ訳じゃなし。

 我が家のスタジオの雰囲気で唯一誇れる部分があるとすれば、制作上のプレッシャーがとても少ないという点だろう。
ものすごく有能なアシスタントエンジニアが居るわけでも、最先端の録音機器があるわけでもないが、時間に追われず、しかもスタジオの狭さ故に無意味な見物人は居ない。後者は特に重要。
大きな犬が2匹いるので犬が苦手なミュージシャンには恐怖かもしれないが、今のところ犬嫌いの音楽家は我が家を訪れていない。

 途中で作業が中断され、そのままになってしまった作品も面白い。
描きっぱなしの油絵のようでもあり、中断した事でその作品を完成させているかの様な、半ば意志に似たものを感じる。
長く月日が経っている場合は、もう人の手が入る余地など無い。
テープの整理をしていると主人曰く「簡単なデモを録ったが縁がなくそれっきりになった」という代物がたまに出てくるが、聴かせてもらうと案外良かったりする。
志半ばで制作を諦めざるを得なかった複雑な事情を抱えながら奏でられる音楽の、不思議な魅力に因るものなのかも知れない。

 かく言う私もミュージシャンなので、そんな録音の現場に演奏家として参加することもある。
なにも湯舟の中で呑気に批評をたれているばかりではないのだ。
主人のアルバムでは当たり前のように何曲もキーボードを弾かされるし、友人のレコーディングに頼まれて参加することもある。
我が家でのことなので面倒なお化粧や着替えも不要だし、閑でもそうでなくても他人の音楽に触れる事は恰好の気分転換。自分の作業が難航している時ほど、不思議とリラクゼーションになるものだ。

履き慣れた自分のスリッパで弾き慣れた家のピアノを弾いて、お金を頂くなんてどう考えてもピンとこないので、この家での演奏は基本的に無報酬。
家族や友人なら尚更だ。
予算が有り余っているのなら別だがそんな状況はむしろ薄気味悪い。
それよりも金銭が発生することで生じる僅かな責任にも縛られたくない、という思いは少なからずある。 どこまでも気ままにベストを尽くしたいのだ、自分のために。

 お風呂場で聴く彼等の音楽は、手探りならば手探りなほど心地よい緊迫感を与えてくれる。誰のためでもない、自分のために曲を作る音楽家達が紡ぎだした響きは、いつもそばに置いておきたくなる。

(了) -1999.10.2-