第8回 『嫁に来ないか』

 前回に引き続き、お仕事関係について。

私のスタジオ仕事歴は、案外古い。
記憶上いちばん最初のスタジオ仕事は、16歳の時。
もちろん高校生だ。

チンチン電車と呼ばれる昔ながらの路面電車沿線に、私が6歳から18歳を過ごした学び舎がある。大阪の、実にはんなりとした校風に最大限に甘えながらも、クラブ活動をとことん追求した火の玉 ガールだったように自覚している。なにせ4つのサークルに在籍していたのだ。
「ドラマ部(演劇部)」「新聞部」「近代文学研究会」そして「軽音楽部」。
「軽音楽部」ではバンドを組んでいた。女子高なので女の子バンド。
私以外のメンバーは筋金入りのロック少女達だ。

ドラムスはレッドツェッペリン命で、おまけに市長の娘。ボーカルはクイーンに魂を売ったとまで噂される程のフレディー・マーキュリー好き。ギターはオーダーメード専門のテーラーの娘で 暇さえあればボードレールを読み耽り、高1にしてすでにチェーンスモーカー。ベースは船場の 老舗呉服屋のこいさんで、これも100%クイーンに青春を捧げていた。
そして適当にオルガンを弾いたり歌ったりして暴れていた私。
やんちゃぶりが目に浮かぶようだが、揃って成績も良く、先生方にも可愛がられていた。

そのアマゾネスの様な一群が当時使っていた練習スタジオで、私のオルガンプレイを見て声を掛けて来た人がいた。キーボーディストを探しているのだという。
話を聞くと、彼のバンドは珍しいことに「寺内タケシとブルージーンズ」をこよなく愛するバンドで、自分は寺内タケシの一番弟子だとはっきりアピールしてきた。冗談にしてはディープだし、当時でさえ「寺内タケシとブルージーンズ」はとっくに過去のバンドだったのだ。

いうまでもなく気乗りはしなかったが、カセットテープで聞かせてもらった彼等の演奏が信じられない程のハイレベルにあり、正直興味も湧いて、軽く参加することにした。

 主にサラリーマンで構成されていたそのバンドは、形こそアマチュアだったが、それぞれが エキスパートだった。大手の楽器会社につとめている技師もいたし、田舎から出て来て安アパートに暮らしながらモズライトを弾かない日は無いという会社員など。
先ず驚かされたのが、その練習量の多さだ。
コンサートを控えているわけでもないのに土日は朝の10時から夜の10時まで。
社会人だから自由に使えるお金があるのをいいことに、練習し放題、楽器買い放題。
私はまだ高校生だったのでスタジオ代などは免除してもらったが、そのかわり練習は厳しかった。

 楽器の扱い方やシールドの巻き方も、そこで学んだ。飲みかけの缶ジュースをシンセやピアノやアンプの上には絶対に置いてはならないのだ。くわえ煙草で楽器に触ることも厳禁。
最初に叩き込まれたのが、コードだった。
小さい頃から耳で聞いただけで構成音が把握できたので、テレビから流れてくる流行歌などはすぐにピアノで再現可能、歌う人間のキーに合わせて瞬時に移調して伴奏するのもわけなかった。
おかげで五線譜にすら頼ることも少なかったが、その響きのほとんどを置き換えることが出来るコードネームを知らなかったのだ。
クラシックピアノの稽古をやめて3年程経ち、新たにハモンドオルガンを習いはじめていた頃なので、コードの仕組みを教わるには丁度良いタイミングだった。
勤勉で生真面目な人達で、私が一緒だとビールも飲まない。

 そんな彼等に、たまたまレコーディングの仕事が舞い込む。
これが渋い仕事で、とっても繁盛しているお肉屋さんの店長さんが自分のシングル盤を作りたいという。そのアレンジと演奏。
ヤマハポピュラーソングコンテスト、略してポプコンの地区最終審査まで残ったという本人曰く「名曲」で、入賞を果たせず未練が残って仕方が無いらしい。
お金ならあるから、なんとか記念のシングル盤を作りたい・・・・という企画だったように思う。

手軽に自主制作でCDが作れる今とは違って、当時はレコード会社と契約を結んでいないアマチュアが シングル盤を録音するには、お金もかかるし録音スタジオとのコネクションも必要だ。
大変なことだったと思われるが、よほど羽振りの良いお肉屋さんだったのだろう。

タイトルがまた渋く、「城下町〜萩〜」。
全編をアコースティックギターのアルペジオが包み込む、軽快だがゆったりとした曲だ。
誰にも言わなかったが、新沼謙治の「嫁に来ないか」にとても似ていると心の中で思っていた。
B面はタイトル名を失念したが、堀内孝雄さん辺りが歌うと本当にヒットしそうな、妙に完成度の高いマイナー調のバラード。
A面の「城下町〜萩〜」には生ストリングスを入れることになり、その弦アレンジを何故か私が担当することになった。

 「嫁に来ないか」に似た曲の弦アレンジというと察しがつくだろうが、とてもオーソドックスだ。
多少クラシックを齧りオリジナルを何曲か書いているとはいえ手に余ると思いながらも、さくさく書いた弦アレンジはまあまあの出来で、喜んで頂けたようだった。

もちろんピアノも弾き、コーラスを歌わされて、後日トラックダウンまで付き合った。
特にB面のバラードはピアノがとても前面に押し出されたアレンジで、しかも難しいパートなのだ。
私が間違えると一緒に演奏している彼等も最初から演りなおさなければならない。
プレッシャーと戦いながら、夜中の2時3時まで頑張った。

 この作業が私のスタジオ初仕事だ。
初めてにしては荷が重かったが、幸運なことに嫌な思い出は一つも無い。
後日そのバンドのメンバーと制服姿でスタジオを訪れたが、エンジニアやお肉屋さんに大層びっくりされた。
あんな夜中までスタジオ仕事をしているのだから、てっきりその分野の人間だと勘違いされたのだ。「高校生はこんな所をうろうろせず、勉強しなさい」と、諌められてしまった。
しゅんとさせられたのは、その時くらいのものだ。苦労知らずの自覚の源だろうか・・・。

(了) -1999.10.8-